高次脳機能障害について

1.高次脳機能障害とは ― 外からは見えない脳の障害
交通事故で、体に怪我などはないにもかかわらず、障害が出ることがあります。
その代表的なものが、高次脳機能障害です。
脳は、記憶や言語・論理的な思考・感情を司るのですが、交通事故で脳にダメージを受けると、それらの働きが減衰・喪失することがあります。
物理的に見て、衝撃のエネルギーは質量×速度の2乗に比例しますので、低速でも重量のある自動車の事故であれば、身体にかかる衝撃はかなりあると言えます。
構造上、脳は、脳脊髄液で満たされた頭蓋骨の中で浮いており、ある程度の衝撃に耐えられるようになっています。
しかし、強い衝撃で脳が頭蓋骨の内側に衝突してしまうと、脳に深刻なダメージを負ってしまう事があります。
パック詰めされた豆腐でも、激しく床に叩きつけられてしまうと、パックは壊れなくても中の豆腐が割れてしまうのと、同じ原理です。
そのため、脳挫傷など脳の外傷は、脳の外側、大脳の部分に起こる事がほとんどです。
また、脳が頭蓋骨の中で激しく揺さぶられると、脳の神経線維が広い範囲で断裂する、びまん性軸索損傷が起こることもあります。
びまん性軸索損傷は、CTでは異常が写りにくいことがあるため、頭を打った直後の検査で異常なしとされても、安心はできません。
強い衝撃や回転の力で脳が揺さぶられ、神経細胞をつなぐ軸索という線維が、脳の広い範囲で断裂する損傷のこと。
出血や挫傷と違って画像に写りにくく、受傷直後のCTで異常なしとされることもあるため、高次脳機能障害の見逃しの一因になっている。
MRIの特殊な撮影方法で微細な出血痕が確認できることがある。
2.「脳の障害」は、損傷箇所によって症状が異なる
一口に脳と言っても、脳は場所により担っている役割が違います。
脳幹や小脳は、原始の脳、とも言われ、生命維持や五感などに深く関わりがあります。
一方で大脳は、人間という知的生命体であるための機能が集まっており、特に大脳の表面を覆う大脳新皮質は、合理的で分析的な思考や言語機能を司っています。
構造上、脳の中でも一番外側にある大脳新皮質が受傷しやすいのですが、もし受傷してしまうと、合理的で分析的な思考が出来なかったり、思っていることを言語化出来なかったり、書かれている文章を正しく理解できなかったりといった障害が起こります。
3.記憶障害 ― 短期記憶と長期記憶の仕組み
脳は記憶する器官なのですが、記憶には、短期記憶と長期記憶があります。
例えば、おつかいで店に買いに行くときに、醤油を2本買う、と覚えていても、それを1年後も覚えているかというと、ほとんどの人は覚えていません。
逆に、忘れっぽい人でも、自分の家への帰り道を忘れる人はほぼいません。
脳内では、一時的に覚える短期記憶のスペースと、長期に保管する長期記憶のスペースとで分けられており、一時的に覚えた記憶の中から選別して、いるものは長期記憶に変えて保管していき、不要なものは消えていきます。
脳の障害の中には、記憶障害と呼ばれる症状があるのですが、記憶が保持できない症状の記憶障害があります。
『数分前に言われたことを忘れてしまう』、
『翌日には昨日していたことをほとんど忘れており、晩御飯なども思い出せない』、
『3日前に念押しをしていた約束を、当日には約束した事すら忘れている』
などの症状が現れます。
よく、3日前に約束したでしょう、と言われて、少し考えてから思い出す、というのは一時的な物忘れで、健常者でも起こり得ます。
しかし、脳障害による記憶障害の場合、記憶自体が消えてしまっているので、ないものを思い出すことは不可能なのです。
また、短期記憶から長期記憶への移行が、上手くいかない場合もあります。
短期記憶は、数時間から数日で消えていきます。
家の周りの地図や自分の家の間取りなどは、繰り返し毎日覚えることで長期記憶に変化して、忘れることはないのです。
しかし、交通事故で、短期記憶が長期記憶に変わることがなくなってしまうと、昔のことは覚えているのだけれども新しい事は覚えられない、ということが起こります。
4.感情のコントロールの障害 ― 前頭前野と扁桃体
人の感情には、脳の前頭前野と扁桃体が深くかかわっています。
扁桃体は感情を大きくする作用があるのですが、前頭前野は、感情を抑制する働きがあります。
前頭前野は、前頭、という名の通り、脳の前部分にあるため、交通事故で受傷しやすい箇所であると言えます。
もし前頭前野が受傷してしまうと、感情の抑制が出来なくなってしまうため、怒りっぽくなったり、少しのことで泣き叫んだりと、情緒が不安定な症状が出ます。
反対に、扁桃体に異常が起こると、感情の起伏がなくなり、表情がなくなるといった症状が出ます。
このほかにも、高次脳機能障害には、一つの作業に集中できず気が散りやすくなる注意障害、自分で計画を立てて物事を進められなくなる遂行機能障害、自分から行動を起こせなくなる自発性の低下など、様々な症状があります。
症状の現れ方は損傷箇所により人それぞれで、複数の症状が組み合わさって現れることも多いのが、高次脳機能障害の特徴です。
5.日常生活への影響
交通事故により高次脳機能障害が起こった場合、高い確率で日常生活に支障が出ます。
高次脳機能障害では、交通事故で脳にダメージを受けたことにより、脳の働きの記憶や言語・論理的な思考・感情が減衰・喪失します。
『交通事故後、忘れっぽくなった』、
『事故にあう前は穏やかな人だったのに、怒りっぽくなって暴力を振るわれそうになった』、
『毎日読んでいるはずの新聞の内容が、理解できない』
といった変化が起こるため、周囲の人間も異変を感じやすいと言えます。
また、論理的な思考や文章・言語の理解に関して高次脳機能障害が出ると、
『相手が話している言葉が理解できず、場に合わない返事をしてしまう』、
『書類を読んでもすぐに内容が理解できず、何度も読み返してしまう』、
『交通事故前もしていた資料をまとめる作業が、交通事故後は時間がかかるようになり、内容の品質も落ちる』
といったことが起こります。
短期記憶と論理的思考が出来なくなると、仕事も単純な軽作業しか出来なくなるケースもあり、会社からの評価が悪くなり、降格・左遷・悪い場合には退職に追い込まれることもあります。
6.「短期記憶障害」は、後遺障害だと気づかれにくい
高次脳機能障害の中で、短期記憶だけに障害がある場合には、なかなか本人も周囲の人間も気が付かないケースがあります。
言ったことをすぐに忘れるといったケースでは、初めは、交通事故で本調子じゃないから、と思っていても、何度も忘れるので、周囲の人も、おかしい、と気が付いてくれます。
ですが、記憶の保持が1~2日間は可能で、それ以上は覚え続けられないといったケースでは、交通事故以前からしていた仕事は長期記憶の中にあるので、テンプレートで処理もできますし、その日言われた仕事は処理できます。
しかし、新しい事に関しては、日をまたいでしまうと忘れてしまいます。
そのため、
『2日前に頼んだ仕事は出来ている?』、
『1週間前に電話して問い合わせた件、どうだったっけ?』
と聞かれた場合、思い出せないというよりも、記憶自体が消え去っているため、答えることができません。
周囲の人間が、忘れっぽいのは困る、と文句を言っても、当人は高次脳機能障害で覚えていられないのでどうしようもないのですが、自分は簡単な言いつけさえ覚えられないんだ、と落ち込む原因になったりします。
7.「怒りっぽくなる」という障害は、家族にとって負担が大きい
前頭前野に障害が出ると、感情が抑えられなくなります。
交通事故後、怒りっぽくなったり、泣くことが多くなったり、静かにしていなければならない場所でも騒いでしまったりと、理性的な行動ができにくくなります。
高次脳機能障害での一番の障害が、高次脳機能障害への理解が本人も含めてきわめて少ない、ということです。
高次脳機能障害の患者自身が、記憶障害や感情の起伏の激しさの変化に気が付いていないということが多く、周囲の人間も、
『交通事故のショックで体調が良くないんだろう』、
『年齢的に認知症が始まってもおかしくない』
と、つい看過しがちになります。
しかし、1か月2か月と過ぎても治るどころか、ますます症状が悪化して、やっと病院で精密検査をしたら良い方で、患者が、自分はおかしくない、と病院に行きたがらないケースもあります。
高次脳機能障害は、脳を強打して起こるだけでなく、転倒程度の衝撃でも起こり得ます。
むち打ちになるかならないかの軽微な事故だったから高次脳機能障害なんてなるはずがない、と考える方が多く、医師も気が付かないケースもあります。
そのため、患者家族が、交通事故から人柄が変わってしまった患者の扱いに数か月~数年悩んで相談してきたり、患者が交通事故後会社をクビになり、転職するも長続きしないため、やっとそこで自分の高次脳機能障害の可能性に気付くといったケースもあります。
なお、子どもが交通事故で頭を打った場合は、特に注意が必要です。
子どもは学習の途上にあるため、事故直後には目立った異常がなくても、進級・進学して学習内容が高度になってから、新しいことが覚えられない、集団行動ができない、という形で障害が顕在化することがあるからです。
また、悩みを家族だけで抱え込む必要はありません。
各都道府県には高次脳機能障害の支援拠点機関が設置されており、専門の相談窓口や、記憶や注意力の訓練を行う認知リハビリテーション、精神障害者保健福祉手帳による福祉サービスなど、利用できる支援があります。
8.高次脳機能障害の後遺障害認定について
高次脳機能障害の場合、
『記憶障害』、
『論理的な思考が出来ず、仕事が出来ない』、
『感情の起伏が激しい』、
『自発性が失われ、うつ状態になる』
など、精神障害系の後遺症が現れます。
普通の交通事故の後遺症と違い、目に見える障害ではないため、医師ですら、後遺障害認定に対して慎重な方もいます。
しかしながら、脳が起因する障害であるため完全な回復は難しく、脳細胞は再生不可である事を考えると、現状維持がやっとであるため、後遺障害認定は不可欠だと言えます。
高次脳機能障害に対する後遺障害認定の要件は、精神障害系に分類されることが多く、内容も細かく条件付けされています。
第1級(自賠責保険金額3000万円)
・神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し、常に介護を要するもの
(身体機能は残存しているが高度の認知障害があるために、生活維持に必要な身の回り動作に全面的介助を要するもの)
第2級(自賠責保険金額2590万円)
・神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し、随時介護を要するもの
(著しい判断力の低下や情動の不安定などがあり、1人で外出することができず、日常生活の範囲が自宅内に限定されている。身体動作は排泄、食事などの活動を行うことができても、生命維持に必要な身辺動作に、家族からの声掛けや看視を欠かすことができないもの)
第3級(自賠責保険金額2219万円)
・神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し、終身労務に服することができないもの
(自宅周辺を一人で外出できるなど、日常の生活範囲は自宅に限定されていない。また声掛けや介助なしでも日常の動作を行える。しかし記憶や注意力、新しいことを学習する能力、障害の自己認識、円滑な対人関係維持能力などに著しい障害があって、一般就労が全くできないか、困難なもの)
第5級(自賠責保険金額1574万円)
・神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し、特に軽易な労務以外の労務に服することができないもの
(単純くり返し作業などに限定すれば、一般就労も可能。ただし新しい作業を学習できなかったり、環境が変わると作業を継続できなくなるなどの問題がある。このため一般人に比較して作業能力が著しく制限されており、就労の維持には、職場の理解と援助を欠かすことができないもの)
第7級(自賠責保険金額1051万円)
・神経系統の機能又は精神に障害を残し、軽易な労務以外の労務に服することができないもの
(一般就労を維持できるが、作業の手順が悪い、約束を忘れる、ミスが多いなどのことから、一般人と同等の作業を行うことができないもの)
第9級(自賠責保険金額616万円)
・神経系統の機能又は精神に障害を残し、服することができる労務が相当な程度に制限されるもの
(一般就労を維持できるが、問題解決能力などに障害が残り、作業効率や作業持続力などに問題があるもの)
ここで争点となるのが、障害によりどれだけ日常生活に支障があり、労働能力が喪失したかという点です。
9.認定を受けるための3つのポイント
高次脳機能障害の後遺障害認定では、実務上、次の3つの要素が重視されます。
1つ目は、交通事故による頭部外傷の事実と、事故直後の意識障害の有無・程度です。
事故直後に意識を失っていた時間や、もうろうとしていた期間は、脳損傷の重さを推認する重要な資料になるため、救急搬送時の記録やカルテに残された意識レベルの記載が、後々の認定を左右します。
2つ目は、脳の損傷を裏付ける画像所見です。
CTやMRIで、脳挫傷の痕や出血、脳の萎縮などが確認できるかが問われるため、事故直後だけでなく、症状が続く場合には時間をおいてMRIを撮り直すことも有効です。
3つ目は、症状を客観的に示す神経心理学的検査です。
知能検査や記憶検査などの数値によって、記憶力や注意力の低下を客観的な形で証明します。
そして、これらに加えて大きな役割を果たすのが、家族が日々の様子を記録した、日常生活状況報告です。
事故の前と後で、性格・行動・仕事ぶり・家庭での様子がどう変わったかを具体的に書き残すことが、目に見えない障害を伝える何よりの証拠になるため、気づいた変化はメモや日記の形で残しておきましょう。
記憶力・注意力・知能・遂行機能などの脳の働きを、数値で客観的に測定する検査の総称。
知能を測るWAIS、記憶を測るWMS-Rなどが代表的で、高次脳機能障害の程度を証明する資料として、後遺障害認定で重視される。
後遺障害の申請時に、家族などの身近な人が、事故前後での本人の変化を具体的に記載する書類。
本人には障害の自覚がないことが多い高次脳機能障害では、周囲から見た変化の記録が、等級判断の重要な資料になる。
日頃から具体的なエピソードをメモしておくと、正確な報告につながる。
10.実際に給料が減収したのか、争われることがあります
被害者の交通事故前の職業が、繰り返しの単純作業がメインであったのならば、第5級・第7級・第9級に認定されても、給与は減少しない可能性があります。
しかし、昇給がなくなったり昇進が閉ざされる可能性がある場合、それを見越して逸失利益の請求をすることもあります。
また、専門職だけでなく通常の業務でも、第5級相当の後遺症がある場合には、会社によっては軽作業への配置換えなどもあり得ます。
そのような場合、収入の減少だけでなく、患者本人の仕事へのやりがいを大きく削ぐことになり、退職もあり得るため、加害者側と法廷闘争となる事もあります。
裁判所は、診断書の内容を重視するだけでなく、被害者の実際の生活にどれだけの支障が出ているかも判断材料とします。
交通事故から裁判まで継続して症状が続いているのならば、裁判所も認定に傾くかもしれませんが、被害者の主張に疑問がある場合には、認められる可能性は低くなると言えます。
だからこそ、事故直後からの記録の積み重ねと、家族の観察が、何よりの武器になるのです。
後遺障害認定されるか否かで、後遺障害慰謝料が支払われるかどうかが変わってくるのですが、弁護士を通じて請求する場合には判例基準で請求するため、自賠責基準に比べると大幅に増額します。
自賠責基準だと、慰謝料部分は第1級で1100万円、第2級で958万円、第4級で712万円、第9級で245万円ですが、判例基準ですと、第1級で2800万円、第2級で2370万円、第4級で1670万円、第9級で690万円なので、差は3倍近くなります。
さらに、重度の高次脳機能障害では、慰謝料や逸失利益に加えて、将来の介護費用や成年後見の費用など、請求すべき項目が多岐にわたり、賠償額の総額が数千万円から億単位になることもあります。
目に見えない障害だからこそ、証拠の集め方一つで結果が大きく変わります。
本人に自覚がないことも多い障害だからこそ、周囲の気づきと、早めの精密検査、そして交通事故に精通した弁護士への相談が、被害者と家族の生活を守る鍵になります。
